ウエッブジャーナル日本海
通巻21号[2002/08/15]
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≪今号の記事≫
「障害者の就労を考える会」の活動と近況報告 〜小柴 千鶴〜
オタク医師の独り言(16)「アメリカ・黄金の50年代」 〜安陪隆明〜
「障害者の就労を考える会」の活動と近況報告
東中学校、校門前のアジサイの大輪は、雨が降ることをひたすら待つように、ひしめ きあって咲いている。「障害者の就労を考える会」が身体障害者・小規模作業所「夢 ハウス」を開所したのは、さくらの季節。早くも3ヶ月が経った。
「夢ハウス」のメンバー、在宅の会員が、ITを使って仕事に結びつけていこうと手さぐ りでスタート。その中で、作業所に通う29歳の、大変さわやかな好青年をご紹介しま す。
彼は脳性小児麻痺一級。以前、姫路で9年間仕事についていたが、この景気の悪い状 況の中、徐々に仕事を与えられなく、会社に居づらくなってきて、昨年、鳥取へ帰っ て来られた。早速、ハローワーク、障害者職業センターと通い、仕事に就くためにIT の講習を受けたものの、受け入れてくぬれる会社も見つからず、自宅に待機状態で あった。
そのような時期、私が「障害者の就労を考える会」に多くの仲間を募るため、障害者 職業センターに声をかけたら、彼を紹介された。彼に「障害者の就労を考える会」の 活動を説明して、身体障害者小規模作業所「夢ハウス」を開所することも伝え、一緒に やろうと呼びかけた。彼は喜んでくれて、「やります、がんばります」と、なんともい い笑顔で答えてくれた。
私は笑顔の彼に応えるためにも、「私もできることでがんばるから、一緒にがんばろ う。でも、障害者の就労を考える会の仲間に入ったから、ITだから仕事がある、すぐ お金に繋がるわけではないので・・・」と、あるがままの現状と厳しさを伝えた。
その後、彼は「夢ハウス」に通ってくるものの、1ヵ月くらいの間は作業所に入ってく る仕事が少なく、収入を得たいという焦りもあったのでしょう。気持ちの上で行き 詰った頃、彼は別の通所施設を下見に出かける旨を申し出た。私は去られる事は残念 であるが、彼が選択し「夢ハウス」よりも良いところであれば、気持ちよく送り出そ うと思ったので、見学に行くことを快諾し送り出した。
翌日、彼に「どうだった・・・」と聞くと、彼は「施設でも仕事は少ないようです」と、 少し落胆した様子で話してくれた。私は「そらそうでしょうよ、この経済の悪い中、 どこも一緒、それで、あなたはどのように思ったの・・・」と聞くと、彼が私に返し た言葉は、「さして大きく代わりがないのであれば、僕は夢ハウスの方が元気だと感 じます。夢ハウスにかけてみようと思います」ときっぱりと言った。そのことばを 言っているときの彼は、いつものにこやかな顔になっていた。私としては彼が「夢ハ ウス」を選んでくれたことが嬉しかった、とともに責任もずっしりと感じた瞬間で あった。
彼は作業所に毎日通い、講演会のテープおこしの仕事を少しずつこなし、今では30分 間の商品を仕上げる事ができるようになった。作業所のほかの仲間に負けたくなく て、仕事を少しでも多くした事を報告してくる。そうすると、側で仲間が聞いてい て、「僕は、昼前には終わっていました」とすかさず切り返してくる。仲間同士で火花 を散らし、競い合って、腕を磨き、できることを私にアピールをしてくる。その彼の 顔から、自信がついてきていることを読み取った。
私は作業所の指導員と目を見合わせて、「いい感じ・・・」とつぶやくとともに嬉しく なり、「これでいいのじゃないの」と言い、陰で心からエールを送る。
「夢ハウス」では3時に休憩をいれるが、この時間がなんともいえない心地よいひと 時。年代も違う、性別も違う仲間が、コーヒを飲みながらとりとめもない話に花が咲 き、時をたつのも忘れてしまうことが多い。彼は休憩時間が終わると、さっと席を立 ち、仕事に向うその姿に、私は貴重な仕事の時間をさいてしまったことに反省するこ と、しばしばである。(ごめんなさい)
私は重度障害者。以前、元気であった時のように何かをしたい、社会参加を願い、就 労に結びつけて、仕事をしたいと耳をダンボにして、目を皿のようにして、長い間も がいていた。その当時、自分がこれであれば、こうすれば、仕事ができると考え、周 りにそのことを伝え、行動に移しても、側の人からはできないものと決めつけられ、 門前払いをされた。その際、親切に注意を促してくださった方は、失敗をさせてはい けないから・・・、無理にそのようは危ないことをしなくても・・・、別に、そんな に無理、無茶をしなくても、元気なものでも大変なのに・・・と言われたこともあっ た。でも、障害があっても、残されている機能でできることを、何かを見つけてやりたい のです。自分自身の生きがいに、自信につなげていきたい。障害者自身が就労を願っ ても、現状は思いのほか厳しく、幾度も挑戦をしては打ちのめされ、あきらめて、投 げ出しそうになったこともあった。
今、私たち「障害者の就労を考える会」では、ITを駆使して仕事に結び付けていく、 という環境ができつつあります。“チャンスは今”。私は、この好機を逃がすことな く、がんばっていこうと考えている。
小柴 千鶴
koshiba@hal.ne.jp
障害者の就労を考える会
shurou@hal.ne.jp
オタク医師の独り言(16)「アメリカ・黄金の50年代」
連休中は家族連れで愛知県の妻の実家に遊びに行っていたが、そ の際に長久手のトヨタ博物館へ遊びに行った。とても良いところで、 自動車が誕生してから今日までの歴代の自動車がずらりと並んでい るのは圧巻であった。どれも素晴らしい自動車ばかりであったのだ が、その中でも特に印象が残ったのは1950年代のアメリカの自動車 であった。
とにかく馬鹿みたいに大きくて、ギンギラギンにメタリックに輝 き、空力学的な意味などまったくない大きなテールフィンなども どーんと付いている。やたら派手で、やたら無駄ばかりなのが 「凄い!」と思った。ヨーロッパ的なセンスの良し悪しなどまった く関係がない。センス云々を越えてとにかく派手で、でかくて、 おおらかなのである。皮肉で言っているのではなく、こんな無駄が できるところがうらやましいと思った。「燃費効率の良さ」だとか 「限られた空間を効率良く使う」などという発想とまったく無縁の 存在である。おそらく日本の自動車会社のデザイナーにはまずでき ないデザインだと思った。
よく1950年代のアメリカを表す言葉として「黄金の50年代」とい う言葉が使われる。これらの自動車のデザインを見るだけでも、当 時のアメリカの文化は、何も怖いものなどない、まさに脳天気で絶 頂の華やかで派手な文化であったろうことが伝わってくる。その一 方で、戦争に負けてぼろぼろになり貧しかった日本人の目には、戦 勝国アメリカのこのような文化はどのように映ったのだろうか? 完 全な異世界のように映ったであろうことは想像に難くない。
現代のアメリカにはこんな無駄を許す部分は相当なくなっている ように思える。もちろんアメリカの経済力はまだまだ日本を凌駕し ていると思うのだが、それは余裕を持っての優位ではなくて、本気 を出して保たれている優位という気がしてならない。現代のアメリ カの自動車のデザインにも、こういう雰囲気がある程度は伝わる車 はあるが、到底1950年代の、何かもう完全に突き抜けているという かふっ切れているような凄いデザインの自動車は、もはや製造販売 されていないのである。
現代の日本は享楽的とも言えるかもしれないが、それでも到底こ の当時のアメリカには及ばないだろう。そしてこれからの日本はま すます経済力も治安も衰えていくであろうことを考えると、決して こんな1950年代のアメリカ的な文化を私が実体験することはないと 想像できる。
そんなことを考えながら、私は同博物館の売店で、そういった自 動車のミニチュアモデルを買うという、いかにも日本人らしい行動 をとっていた。私がこの世に生まれる少し前に実在した、凄まじい 文化の余韻にもう少し浸っていたくて…
安陪隆明
鳥取県鳥取市
安陪内科医院
http://www.abe.or.jp/
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