ウエッブジャーナル日本海
通巻54号[2004/07/12]
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≪今号の記事≫
家作りの現場から〜木の、石の声〜
岡目八目旅日記 韓国編 〜考古学者と歩いた韓国〜 その1
家作りの現場から〜木の、石の声〜
「木に学べ」とか「石の声を聞け」とか言った偉い職人さんがいた。前者は法隆寺、薬師寺の宮大工として有名な西岡常一氏、後者は安土城など城郭建築の石積みで有名な穴太衆(あのうしゅう)という技術者集団を受け継ぐ粟田万喜三氏の言葉じゃ。お二人とも既に故人となられてしまったが、このお二人に限らず、ひと昔前まではかような言葉で、使われる素材と使う人の在りかたを説く職人さんは身近やった。
粟田氏の言を借りれば「石は、一つずつじっと見ていると、どの石が何処へ行きたいかちゃんと石の方から声をかけてくる」という。小さな石は小さな石なりの働きがあり捨てる石は無い、それぞれの役割を適材適所、自在に使えてこそ一人前の職人じゃ。宮大工であった輩の父親も先代から「木挽衆と一緒に山に入って、木と対話できないと造れない」と聞かされておった。
実際、木や石が声を掛けてくるわけではないが、素材の持ち味を最大限に引き出し、合理的に、有効に利用しようとすると、素材の癖、己の技量、思い、周辺との関係、といったものがある極めて自然なバランスで成立する。そのピタッときた感覚を「声を聞いた」と表現するのかもしれない。その瞬間必ず「己」もその関係の中で必要不可欠な要素となっておる。輩もそのような人に憧れるのじゃが、悲しいかなその境地には道遠し。
しかし「声を聞いた」気がした瞬間があった。それは今にも朽ち果てようとしている民家に出会った時じゃった。まず大前提としてその民家が住み人に大切に、愛されておったということをまず御断りしておこう。御客様の求めに応えてその民家を調査に行ったのじゃが、出会った瞬間その家が輩に向かって大きく息をつき「待っとったで!」と言った気がした。その外見は人間にたとえるなら「医者を呼ぶより坊主やろ」といった風に見えたのやが・・・輩は、我が意を得たりじゃった。
伝統構法、古材、石、土、茅、それらの良さ、魅力を知り、家の劣化とその修復の経験、要望に応えることができる「自分」があると感じた。何より面前に、近隣の内にみごとなロケーションを創るその家が、愛され、延命を望まれている状況があった。それらが瞬時に結ばれた感覚が、「待っとったで!」との言葉を発せられたように輩の心に届いた。
木や石といった「素材の声」が聞けるようになるには、少なくとも「素材+自力」で初めて実現可能となることがあると確信が持てるところまで、自己の鍛練が必要となるのかもしれん。天然素材にはそれぞれ癖・特質があり、なかなか我が意のままには従ってくれぬ。達人はそれらを長い経験と、磨かれた技量でもって、最も合理的な効果を引き出すことができるようになるのじゃろう。そのためにはいろんなことに注意深い眼差しを注いでいるに違いない。
ここが我が意のままになることが前提で開発される新素材や、新建材を使うのとは大きく違う。我が意のままに使われる材は、簡単に切ったり、はつったりできるから、人はそれらの声を聞くこともなくなり「横暴のまま」となる。土地にも、風土にも、近隣にも、大いなる存在にも、眼差しを注ぎ、それらの声に耳を貸すことはない・・・。
(株)藤原工務店
安藤瀞和
このコラムのコンセプト
自然体の暮らしの器として住宅を見るとき、意外と不合理なことがたくさんある。 しかし建築という特殊なものだからと深く考えずに見過ごすことが多い。 そんなことを自然体建築道の修行者の視点で愚痴る。
安藤瀞和(あんどうとろわ)のプロフィール
建築素浪人。自然体建築道の奥義を極めたいと修行に励んでいる。師はいない。
岡目八目旅日記 韓国編
〜考古学者と歩いた韓国〜 その1
プロローグ
わたしは韓国には絶対に行かないと思いつづけてきた。それは、日本の歴史教育が不当にゆがめられていて、嘗て日本が朝鮮を侵略していた時代に行ってきた暴挙と誤った差別に対する正確な総括が行われていないからである。そのために、アリランの歌とハングル文字が韓国のものという程度の予備知識しかもたないで、“キーセンパーティ”にひかれて韓国ツアーに参加する多くの日本人がいることを知っているからである。さらに、金大中以前の時代には、韓国では徹底した反日教育が行われてきていたと聞く。子ども達のアンケートで“世界で一番嫌いな国は日本”とい言う答えが80%にものぼるという。そんなことも知らないで、札束でほっぺたを張るようにして、買春ツアーに出かける日本人が快く迎えられるわけがない。成り上がりものの金持ちが、心の貧しさをさらけ出したように振舞う多くの日本人観光客と、同じ日本人の顔をして、韓国の街を歩きたくなかった。
私は自分自身、間違いなく朝鮮半島から渡来してきた弥生人の血をひいていると思っている。わかりやすく言えば“埴輪”型のつるりとした風貌である。
だから、私の友人の一人で私を“金小中”と揶揄するものがいる。それは、畏れ多くも前大統領 金大中氏に酷似しているからだという。嘗て、金大中氏が公民権停止を受けていた時代には、私も冗談に“韓国で間違って拘束されて帰国できなくなったら困るので行かない。”などといって韓国行きを拒否してきていた。ただ、朝鮮半島の歴史を教えたりして、慶州の仏国寺、ソウルの景福宮などの歴史的な遺産を訪れたいという思いは腹のそこにくすぶってはいた。
昨今、鳥取県や鳥取市が韓国の清州と姉妹都市を結んだりして、にわかに韓国との関係がクロ―ズアップされるに至っている。それもあって、昨年11月、鳥取ユネスコ協会から“日韓交流史”の講演依頼があった。いい機会であったので改めて日韓交流史を勉強しなおしてみた。ちょうど、同志社大学の歴史学研究会OB会で尾道を訪れる機会があり、そこでも江戸時代の朝鮮通信使の足跡に触れることが出来た。
その後、鳥取ユネスコ協会の講演のときいっしょに講師をした賈恵京(カ・へギョン)さん(鳥取大学講師)と話をする機会があり、韓国の実情や、韓国についての多くの知識をえたこともある。韓国が私に向けてどっと押し寄せてきた感じであった。そんな時、むきばんだやよい塾の佐古和枝先生(関西外国語大学教授)から、韓国考古学ツアーに行きませんかというお誘いがあったのである。それでも、先に述べた理由をごたごた並べてはかない抵抗をした。
しかし、佐古先生から、私の畏敬する故佐原 真先生を引き合いに出し“佐原先生も貴方と同じことを言っておられましたが、結局、韓国にお出でになりました。むしろ貴方のような考え方の人こそ韓国に行って、あんな日本人ばかりではないのですということを示すことが正しい日韓関係を作ることになるのではないでしょうか。それに韓国の人たち一人一人はとても素晴らしい人たちです。直接接してそのことを貴方にも実感して欲しい。”と説得された。
これは、自殺をしようとして崖っぷちから深淵を覗いているものの背中を人差し指でちょいとつついたようなものであった。こうして私は、アシアナ航空の米子―仁川便に身をおくことになったのである。
1、考古学遺跡を訪ねて
福泉洞資料館(釜山市立博物館分館)の前に立ったときであったか、同行の柳本先生(豊中市教育委員会)が感に堪えたように「2年程前ここに来たときは、あのあたりは古い民家がいっぱい立っていたところなのに!」とつぶやかれた。
前面の整備された墳丘からは、嘗ての市街地の古い住宅街の姿はかけらも残っていない。墳丘の頂上付近にはガラスのドームで覆われた直径30メートルほどの野外展示館があり、発掘当時そのままの姿が残された木槨墓と竪穴式石槨墓を見ることができる。
埋蔵文化財で当時の姿を五感で窺い知ることのできる最善の方法であろう。私は、三韓時代に日本と深い関係にあった加耶の歴史を中心とした展示の内容は勿論だが、それよりも韓国の遺跡保存の姿勢に驚き感動した。
いかに重要な遺跡とはいえ、韓国第2の都市、釜山市の市街地の住宅を退去させ、広大な遺跡公園と埋蔵文化財を中心とした博物館をいとも容易げに作ってしまうこの国の文化事業に対する手厚い保護政策はなんだろうかと思う。
それは、この遺跡だけのことではない。それまでめぐった金海市の大成洞古墳群と博物館、金海鳳凰台遺跡、縄文前期から晩期にかけての北九州との海の民の往来をうかがわせる東三洞遺跡博物館、そして釜山大学校博物館など釜山近郊の二つの都市に考古学の遺跡と、立派に整備された考古学博物館がこんなに多く設置されていることに驚く。
韓国の子ども達は小さいときから“わかってもわからなくてもこういう遺跡で韓国の歴史を学んで育つ”のだという。
遠くは漢の武帝に始まり、その後も唐、モンゴル、明、清などの中国歴代王朝の直接支配や属国支配、近くは日本帝国主義時代の植民地支配など、長期にわたる外国勢力の圧制と収奪、差別と貧困に耐えつづけてきた韓国の人たちが、自ら守り抜いてきた自国の文化を守り、育て、受け継いでいくことに情熱を燃やすのはある意味で当然かもしれない。
穿った見方をすれば、自国の歴史と文化の優越性を鮮烈に自覚することで民族としてのアイデンティティを確立する必要があったのかもしれない。
中国や北朝鮮との緊迫した関係、東西対立の接点に置かれた韓国の国情を考えると、あの一昨年わが国と共同開催したサッカー世界選手権のときに垣間見た、“赤の旋風”に見られる全体主義的きな臭さを鼻腔に感じなくもないが、この歴史に対する姿勢が、韓国の人たちの誇り高い姿勢につながっていることを感じる。
2月に訪れたペルーでインカ帝國の末裔であるインディオたちが、嘗ての壮大で輝かしい文明を築いた民族の誇りを完全に喪って、物乞いに身をやつした姿を見たときの例えようのない哀しさと対比させた所為もあるかもしれない。
翻って、6年程前、弥生期の日本最大級の遺跡といわれた“妻木晩田遺跡”を開発業者と一緒になってブルトーザーで押しつぶそうとしてきた日本の行政の文化財保護の姿勢の貧しさが、一層鮮明に浮かび上がってきた。あのときの“どうしてこんな貴重な遺跡を破壊してしまうのか”という胴震いする怒り、やり場のない憤りが脳裏をよぎる。そして、あんなに保存運動を続けなければ残すことが出来なかった日本の実情をしみじみ情けないと思った。ただ、それほどまでして残った現在の妻木晩田遺跡の保存復元の実態を見る限り、あの遺跡の凄さを伝えるものになっているかどうか疑問である。
そして、かねてから私が主張し、ことあるごとに語ってきた遺跡の保存の典型を、韓国の遺跡に見る思いがしたのである。
それは、“古代のロマンを遺跡自身に語らせよ”ということなのである。発掘直後の妻木晩田の丘に立ったときの鳥肌の立つような感動が今でも甦る。
それは、2千年も前の弥生の人たちと我々との直接の接点がそこにあったからなのである。弥生の人たちが掘った落とし穴や貯蔵穴のかすかな削りあと、深い竪穴住居の火床や水抜きや踏み固められた床に、厳しい山陰の寒さを凌ぐため肩を寄せ合っていた家族の姿が浮かぶ。
保存のために必要なことはわかっているが、すべて遺物を掘り出して、きれいな陳列ケースのガラスの中に並べたり、無理やり全国どこにでもある弥生の住居跡の復元を行うのは、人間の想像力を固定化するものに他ならない。
折角の生きている遺跡の根切りをして、古代からのつながりを断ち切り、2千年の眠りから覚めたものたちの息の根を止めてしまうような事をしてはならないのである。
人間には豊かな想像力がある。発掘された遺跡・遺物を通じ、古代の人々を思い浮かべることが出来る。色々な可能性を遺跡や遺物が語りかけてくる。それぞれがその語りかけに耳を傾け、弥生の人々の営みを思い描いて見るのだ。それこそが、まさに“古代のロマン”なのだと思う。
専門家の研究はここではおいておく。我々素人は、弥生人から営々と営まれてきた人間の智恵や歴史の重さを感じ取り、明日への生きる力に変えていけばいいのである。
遺跡・遺物の保存は勿論重要だと思うが、せめてレプリカでもいい発掘の現状をそのままの形で残して欲しいと思うのである。その上で、どうしても、当時の姿が明らかにしたいと思うなら、今、バーチャルリアリティで再現するというヴィヴィッドな手法があるではないか。とりわけ、今、脚光を浴びている青谷上寺地遺跡は、湿地であるため、高地性集落である妻木晩田では出土しない多くの貴重な遺物が発掘されている。中国の始皇帝の兵馬俑遺跡を訪れられた方はお分かりだと思うが、あのような巨大なドームをかけて、全貌を明らかにする事が出来たら、日本中、いや世界に発信できる素晴らしい遺跡になると思う。また、弥生人の脳とともに出土しているあれほどの大量のヴァラエティに富んだ木製品、他に例を見ない多量の卜骨などの遺物を見るとき、それだけの価値が充分あると思うのである。韓国の遺跡を巡りながら、再び、鳥取の弥生の遺跡保存に対する情熱が甦ってきたような思いであった。
(以下次号へ続く)
谷口 肇
谷口 肇のプロフィール
鳥取の片田舎に生まれる。
40年間、高校生たちに、世界中の人間たちが生きてきた歴史の語り部として過ごす。 今は、NHK文化センターの講師として、刻み込まれた歴史の襞をなぞりながら受講者とともに歴史の醍醐味を味わっている。 その間、ヨーロッパ、アジア、北米、南米、アフリカなど40カ国あまり、そして日本の各地を、大きな歴史のうねりに目を凝らし、歴史の歯車の軋る音に耳を澄ませつつほっつき歩いてきた。
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