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ウエッブジャーナル日本海 通巻56号[2004/08/10]
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≪今号の記事≫
  • 家作りの現場から〜デザインの健康〜
  • 岡目八目旅日記 韓国編 〜考古学者と歩いた韓国〜 その2


  • 家作りの現場から〜デザインの健康〜

     ふらふらと地元の景観を眺め漂い歩いてきた。一昔前、建築を生業として進もうという己の覚悟や義務感を確認するため、また、その頃の国をあげての開発ブームに違和感をもちながらも、無力で、あまりに地元のことを知らなかった自分の反省とか、何やかやと幾つかの思いが重なって始めたことやった。しかし、これが目からウロコの連続やった。こんな素晴らしいものに囲まれて暮らしながら何で今まで気づかなんだか!
     思えば田舎の素晴らしさは様々なところで取り上げられておった。が、それは田舎の時代遅れな部分が酔狂な都市生活者のノスタルジーを満足させるからやろう、といった程度にしか認識せず、本気でそれらのものに接してこなかった己の姿勢にあったんや。

     間違いやった。3階建ての養蚕農家郡の簡素で明快な佇まいは、建築雑誌で目にしている最新のコンクリート打放し建築と比べて少しも遜色無いものどころか、素材の土壁の表情はむしろ優れておった。
     谷川にかかる木橋はさりげない風情で景観のバランスは絶妙やった。「何も足さない、何も引かない」というコマーシャルがあったが、その美しさたるや「何も足せない、何も引けない」と思った。景観学を駆使したという、かの、本四架橋も遠く及ばないほどの完成度を醸し出しておった。棚田や村落を構成する多くの石積みの美しさや、有名な茶室や数奇屋建築に比しても劣らない道端の小屋や納屋の味わい深い風情など、あげればキリがないがそれら多くのものが全く無名な地域の職人や人々によってつくられ、伝えられてきたことに更に深い感銘を覚えたもんじゃ。

     それまで輩は、建築デザインというものは研鑚を積んだ一部の優れた人がその世界をリードし、そんな人が東京やニューヨークといった大都市から情報を発信するものやと漠然と考えておった。が、それら以上に惹かれる、これらの「詠み人知らず」の優れた創作物に数多く接するうちに、輩の視線はその魅力の根源を探りたいと思うようになり、今ではこう考えるようになった。それは「デザインの健康さ」というような魅力ではないか。
     例えばガウディーの作品群は確かにすごいと思う人は多かろうが、あの作品から健康さを感じる人は少ないのではなかろうか。反対に極度にシャープにデザインされた現代建築群も「青白きインテリ」のごとき不健康さを連想してしまうのは輩だけじゃろうか?それは建物本来の用途より「デザインの持つ力」に意識が注がれることからいえば当然の結果であるのじゃが・・・。
    但馬で多く見られる養蚕農家
     輩が感じた「デザインの健康さ」とは、建物や構造物がつくられる時、それらの用途を邪魔しない中で、それでも「美しく見せたい」とか「形良く整えたい」といった職人や技術者の込めた「創意」が、理にかなったバランスの良さ、すなわち「健康な創意」と映ったからじゃ。
     景観に対する住人のスタンスもそうや。川や道は自然に立ち向かうのではなく、どちらかといえば自然に対して無理を強いない謙虚な風情やし、村落や田畑もそうや。また、それらを構成する土や石積みの風情からは、川虫が小砂利を使ったり、地蜂が土を使って巣を作ることと同じ、自然の法則にかなった小気味良い安心感を得た。意図して人の作為を尊大に見せようとする現代の手法に比べ、いかにも健康じゃった。

     郷土で建築を生業として生きてゆくことと、都市でやってゆくこととの根本的な違いはここにあるように思う。田舎にも新しい建物や広告もあるが、全体から見ればこうした何百年前からかよう分らん石積みや、古い建物、豊かな自然の方が絶対的に多くの空間を占めている。そんなところに超モダンデザインの建築をポンと置いても「裸の王様」を地で行くようなものやろう。景観要素として圧倒的に決定権を持つのは、過去から受け継がれてきた多くのものなのやから。
     そのことに気づくにつれ、それらを壊してしまうのではなく、うまく次の世代に繋いでいく責任が、郷土で建築を志す者に課せられているのではないかと考えるようになった。歴史の流れの中で未来と過去の中継点として今を認識するとともに、地球上の座標としての自分の居るところも考えるようになった。

     ここで建築に携わる以上、自分のデザイン性向や趣味といった非常に個人的な創作欲を外れたところで、地方にとっては「本来」である「過去」と「未来」を繋ぎ、「ここ」と「よそ」を繋ぐ役割を果たさなければならないのではないかという想いは、不思議なことにプレッシャーではなく肩を軽くさせてくれた。もちろん過去からのものを単純に未来に繋げるのではなく、現代という時代性を自分なりに加味して未来へつなぐことが求められる。
     そう考えるようになって、やがてこれは建築だけでなくあらゆる職能を持つ人々全体に通じることと気づき、郷土の見方、ありかたに対するスタンスも変わり、哀れ安藤瀞和の行脚は始まった。


    (株)藤原工務店
    安藤瀞和
    このコラムのコンセプト
    自然体の暮らしの器として住宅を見るとき、意外と不合理なことがたくさんある。 しかし建築という特殊なものだからと深く考えずに見過ごすことが多い。 そんなことを自然体建築道の修行者の視点で愚痴る。
    安藤瀞和(あんどうとろわ)のプロフィール
    建築素浪人。自然体建築道の奥義を極めたいと修行に励んでいる。師はいない。


    岡目八目旅日記 韓国編
      〜考古学者と歩いた韓国〜 その2


    2、考古学者の友情
     このたびの“むきばんだやよい塾の仲間達の修学旅行”に在学生でもないのに飛び入りで参加したのは、三人の考古学者が同行してくださるという魅力的なうたい文句に釣られたのである。藤田 憲司先生(大阪府文化財センター南部所長)柳本 照男先生(豊中市教育委員会)佐古 和枝先生(関西外国語大学教授)という豪華メンバーの案内だと聞けば、食指の動くのも当然。
     韓国に詳しい柳本先生が韓国グルメをプロモートしてくださるという願ってもない話は、美味い物に目がない私にとってまさに垂涎のお誘いであった。
     期待にたがわず、見学初日の金海・釜山では、終日、釜山大学博物館の安星姫さんの案内で遺跡を巡ったが、三人の先生方が要所で説明いただける。総勢30名で三人の講師、それに現地の学者が二〜三人だから、どこで説明を聞き漏らしても、どこででも質問できる贅沢さである。
     しかし、それよりも驚いたのは、どこの遺跡でも、どこの博物館でも現地の博物館の館長、研究員の方が日本の先生方と懇意で、詳しく案内して頂けることであった。しかも、説明は大抵日本語なのである。日本の博物館の研究員が英語は愚か韓国語で説明するなど、なかなか考えられないことである。
     言葉の話だが、日本と中国と韓国の学生に英語のテストをしたら、読み書きについては日本人がわずかの差で優れていたというが、ヒヤリングについては群を抜いて2国に劣っていたという。日本人にとって、バベルの塔のパニッシュ(罰)は島国で他国と隔離・監禁にあっている所為か、数倍の効果をもたらしているのかもしれない。
     慶州の古墳公園や仏国寺では、ボランティア・ガイドが向こうからわざわざ駆け寄ってきて、案内を買って出て、専門的な知識に裏付けられた内容を、流暢な日本語で丁寧に説明をしてくれた。
     韓国語を少しは勉強をして行こうと思いつつ、忙しさに取り紛れて結局何も出来ず、結果として町じゅうにかかっているハングルの看板は何一つ読めず・わからず、使った韓国語は“カムサ・ハムニダ”(ありがとう)と“アンニョン・ハセヨ”(こんにちは)の二つだけだったという悲しい話であった。我がことながら“真の日韓交流はいつの日ぞ”とおもう。
     それにしても、先生方は韓国語がかなり話せる。弥生期の日本の考古学者は研究を続けていると、必ず韓国に行き着くという。柳本先生などは、韓国に長く滞在して研究を続け、現在でも年に2〜3回は韓国を訪なわれるそうである。
     そのせいか、韓国の先生方と日本の先生方の間に、同じ考古学を学ぶものの“土の温かさ”が結ぶ絆のようなものを感じた。皆、日頃は背広にネクタイ姿だが、発掘の現場では、灼熱の太陽の下で塵埃にまみれた作業服で、ひたすら只管土を掘り続け、一片の土器や鉄器の発見に一喜一憂し、夜はマッコリと焼酎とキムチで疲れを癒し、同じテントで眠る。考古学者仲間に、同じ釜の飯を食った山男どもと同質の汗の匂いのする同志愛のようなものを感じて羨ましかった。そこには、国境も言葉の壁も存在しないのだろうと思った。

     釜山大学校桑南国際会館での歓迎パーティには、むきばんだやよい塾30名を越える釜山大学校の考古学関係者が集まって頂き盛大なものとなった。
     慶州でも、夕食の会食を終えたあと、国立博物館の学者・研究員の皆さんと二次会のカラオケ・パーティに参加した。
     韓国の学者達は、日本の学者のイメージとは大幅に異なる。象牙の塔にこもった排他的で尊大な学者の姿を思ったら大間違いである。
     何よりも、底抜けに明るい。率直で衒いがない。カラオケも上手だが、へたくそでも一向に意に介しない。ソウルのK先生などは、午前零時半ごろから、さあ3次会に行きましょうということで、カラオケがスタートした。ボリュームをいっぱいに上げたスピーカーから弾き出される音響が狭いカラオケボックスのなかで乱反射する。あの程度の音のズレだったら、日本人なら間違いなく“自分は、歌はうたわない主義”などと格好つけてカラオケを回避するだろう。
     最後には、モンゴル系の朝青龍のような怪力で我々を軽々抱き上げてうたいつづける。我々も騎虎の勢いで、負けじと声を張り上げ時ならぬ日韓歌合戦とは相成った次第。酒の勢いもあったが、韓国の先生方のオーラに当てられて、普段は引っ込み思案の山陰人たちも、あの時間帯に限って言えば、積極的で物怖じしない前向き人間に変身していたように思う。
     念のために申し添えておくが、韓国の先生方は概して歌がうまい。韓国調のポップスは日本のいわゆる流行歌の雰囲気に似ていて、叙情味豊かでメロディーが美しい。それを朗々とした美声で歌い上げる。韓国の人たちの声帯は音楽にむいていると聞いたことがある。ヨーロッパのコンクールでは韓国の歌手に出場制限を設ける。そうでないと賞を根こそぎ掻っ攫われるということを言うが、むべなるかなと思った。
     何はともあれ、世の中の塵埃に汚されない純粋な考古学者たちの土の匂いのする友情に接し、私が歴史学の徒であった学生時代、仲間と安酒を茶碗で汲み、口角泡を飛ばしながら、夜を徹して議論した青春時代のロマンを思い起こした夜であった。

    3、垣間見た韓国風景
     長崎を思わせるような坂の多い釜山の町、やたらとマンションが目立つが一方では貧しい家並みも残っている。貧富の差はかなりあるように見受ける。
     釜山大学校近くの繁華街の感じは、おでんの屋台も並んでいる日本の地方都市の商店街と変わらない。
     日本では納豆と沢庵の匂い、韓国ではキムチとにんにく大蒜の匂いで、敏感な人は“ムッ”とするときかされてきた。かなり嗅覚には自信がある方だが、違和感はなかった。かえって東南アジア(タイやミャンマー)の独特の香料のほうが鼻につく感じである。
     違和感といえば、やたらに目立つ看板のハングル文字だけが気になる。発音も意味も皆目見当がつかない。なんとも落ち着かない。
     ちょうど、ハンガリーでマジャール語が全くわからなかったが、そのときの頼りない不安な気持ちを思い出した。  もともと漢字文化圏なのだから、もう少し、漢字が使われていても良いと思った。1664年に世宗(セジョン)によって制定されたもので、嘗ては漢字もかなり使われていたそうである。しかし、これも、新生“韓国”になって自国の文化を尊重する政治姿勢を貫く意味もあってハングルの使用が徹底されることになったと聞く。言語の中では極めて理論的・合理的で法則性にかなっているというが、何しろ全く読めない私にとってはいくら言語的に優れていても、まさに猫に小判である。
     国策として徹底されたひとつの証拠に、韓国元(ウォン)紙幣は全て世宗(セジョン)の肖像が使われている。お金のついでに貨幣価値とレートについて触れておくと、丁度、円の1/10だから、大変わかりやすい。
     物価も日本に比べるとかなり割安な感じがする。さらに安いつながりでついでに言えば、ヨーロッパなどと比べて日本への電話は大変かけやすかった。まず、時間差が全くないこと、5,000ウォン(500円)のカードで簡単にかけられること。(3〜4回利用できる)日本以上に携帯電話の普及率はかなり高いということだが、それにもかかわらず公衆電話がかなり多いこと。しかも、必ず国内電話と国際電話がセットになって設置されていてとても便利であった。
     3日目、慶州駅からセマウル号でソウルに向ったが、朝、慶州(キョンジュ)の駅のホームに出て、“あっ!ここは前に来たことがある!”と感じた。そんなはずはないのだが、おそらく低いプラットホームを歩いて、60年前のかすかな記憶と繋がったのだろう。昭和18年9月、満4歳になったばかりのとき、母と私と妹、母方の祖父、それにお手伝いさんのシーちゃんの一行5人で、潜水艦の攻撃の恐怖にさらされながら関釜連絡船に乗って釜山港に着いた。その後、釜山駅から列車で北上、鴨緑江を越えて、旧満州(現、中国東北部)吉林省延吉に関東軍の将校として駐屯していた父に面会に出かけたのである。
     その意味では、今回は2回目の韓国旅行になる。わずか4歳だったが、初めて接する異文化にカルチャーショックを受けたのか、かなり鮮明な記憶が残っている。ひょっとして、今、気が違ったみたいに外国旅行に出かけているのは、4歳のとき海外渡航で接した異文化の面白さが潜在意識として影響しているのかもしれない。
     車窓から眺める農村の姿は、広大な平野こそないけれども、日本の田園風景とあまり変わらない。ただ、日本と比べて雨量が1/2で春先の所為か緑の色は極めて少なく岩山と雑木林と松、全般に乾燥した茶色っぽい風景が連なる。
     慶州などの地方都市では全て平屋建て、古い貧しい家屋は今ほとんど取り壊し中のようである。歴史を感じさせる立派な家は、韓国独特の軒反リの屋根で中国の屋根と日本の仏教建築の軒反りの中間に当たる。
     釜山の名山、梵魚寺(ポモサ)、慶州の世界遺産、仏国寺など、唐の影響下で仏教が伝わり、仏教文化が大きく花開いた時代の文化遺産も見て歩いたが、中国のものとは異なる独特のものでありながら、日本の仏教建築や仏像との中間に位置する印象がある。家屋の形式、墓制、石灯篭、亀趺の形などをみても、韓国がやはり中国文化の中継地として、日本への橋渡しをしたことを確認して回ったように思う。ただ、大都市に入ると、全くその印象は変わる。現代(ヒュンダイ)とサムソンのマンション群が林立する。狭い国土という立地を考えると居住空間を効果的に利用することを政策的に奨めているのだろうか。人口の50%に当たる2000万人がソウルとその周辺に集中しているという。近代化の進行と住宅の確保の調和をとるためにはこの方法しかないのかもしれない。
     しかし、巨大独占資本が、歴代の政府、高級官僚と癒着して、利権をむさぼってきた結果とも聞く。しかし、日本のように、先祖が汗水たらして開拓してきた最も肥沃な下流の美田を、政府とゼネコンが結託し、蚕が嵐のような音を立てて桑の葉を食い尽くしていくように、食料自給率を犠牲にしながら宅地造成をしていったことを考えると、国策としては韓国のほうが妥当かもしれない。
     新幹線が整備され(ちょうど最後の試運転が行われていた)高架の高速道路があちこちで建設されているのを見ると日本の近代化との相似性を感じる。アメリカ型近代化の枠の中にあるといえるかもしれない。
     ただ、日本と全くことなるのは、外国資本の影がほとんど見えないことであろう。ヨーロッパや東南アジア諸国であれほど浸透していた日本車の姿が全く見えない。走っているのは、あらゆる車種(トラック、バス、乗用車など)がヒュンダイという国産車のみ。たった数台だけベンツの姿を見た。寡聞にして韓国の正確な貿易経済政策や関税のあり方などよくわかっていないが、自国の産業の振興のため徹底した保護貿易政策が取られているのを感じた。ただ、砂漠のど真ん中にでもあるという真っ赤なコカ・コーラの看板だけはハングルを使うことなく自己を主張し、一人気を吐いているようであった。
    (以下次号へ続く)
    谷口 肇
    谷口 肇のプロフィール
    鳥取の片田舎に生まれる。
     40年間、高校生たちに、世界中の人間たちが生きてきた歴史の語り部として過ごす。 今は、NHK文化センターの講師として、刻み込まれた歴史の襞をなぞりながら受講者とともに歴史の醍醐味を味わっている。 その間、ヨーロッパ、アジア、北米、南米、アフリカなど40カ国あまり、そして日本の各地を、大きな歴史のうねりに目を凝らし、歴史の歯車の軋る音に耳を澄ませつつほっつき歩いてきた。


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