中村忠文のページ
http://www.nihonkai.net/nakamura/
インディックス中村家の会中村忠文 著書権現まつり

   ようこそアクセスして頂きました。
 私の研究、活躍の一端をご紹介します。


村家の会

 のページは下記の戦国大名、中村氏ゆかりの者が中心となった、中村家の会のページですが、中村孫平次一氏、中村一学一忠に関する記 事を主体としていますので、関心のある方は、どうぞお読み下さい。そしてEメールを下さい。
駿府城主 中村一氏・孫平次・(公式名)中村式部少輔一氏
米子城主 中村一忠・一学・(公式名)松平伯耆守忠一

 ヶ原合戦
 慶長5年9月15日(1600年・・・丁度1600年です。日本の中世と近世の代り目です。)関ヶ原合戦がありました。本当に、当時の日本を東西に分けての大合戦であったのです。

 村一氏の場合
 関ヶ原合戦・・・丁度その時・・・実は関ヶ原合戦を目前にした7月25日逝去したのです。彼は駿河14万5千石駿府の城主でした。(今の静岡県)死ぬる直前、徳川家康の軍勢が、会津の上杉征伐の為東進する途中、駿府を通過した時、彼と会見しています。そして東軍への参加を申し上げ、「自分は病気で参戦できないので、嫡子一忠(当時10才)を名代として参戦させます。」と言上しています。家康は、それを了とし、一忠が関ヶ原合戦に参加しました(総指揮は中村一栄(一氏弟)がとった)。関ヶ原では南宮山に陣していました、毛利のおさえとして垂井(たるい)に陣しておりました。

 村一氏のそれ以前(出自)
  近江国に甲賀という忍者村があることを御存知でしょう。実はあの有名な伊賀とは峠一つ越えた所です。甲賀には忍者53家というのがありますが、伊賀と共々忍者の地でありました。その甲賀に瀧(又は多喜)という家がり、孫平次という若者が居ました。瀧孫平次は、生来果敢な人間で、どちらかと言えば村の暴れ者でした。 折から、羽柴秀吉が、織田信長の武将(その時代まだ武将と言える身分ではありませんが)、当時、木下藤吉郎でしょうか!が居りました。そして、なかなかの知恵者で、織田家中で頭角を現しつつありました。同時 に、自分を手助けしてくれる家臣も募集しておりました。御存知の山内一豊、堀尾茂助や加藤清正(寅之助)や福島正則、片桐且元 等もその募集に応じた人達です。

 孫平次・・・もそうした木下藤吉郎の事を知り、近江から尾張の藤吉郎の下に仕官したのです。(仕官は上司である織田信長に仕えたという形にとなっています。)
 木下藤吉郎は、その頃、織田信長が取り組んでいた、越前の朝倉攻めに参加していました。(一度は浅井の謀反で失敗したものの、その後、 ずっとこれを攻めつづけました。)「姉川の合戦」は、その頃の有名な合戦でありますが、この時の戦功によって、近江長浜に封じられました。そして、名前も羽柴秀吉と名乗ったのです。 中村一氏(瀧孫平次)はこうした木下藤吉郎の下で活躍をしており、藤吉郎が近江長浜城主になった時、藤吉郎の出身地尾張中村の一政の家を継ぐよう申しつけられました。 こうして、中村孫平次一氏が誕生したのです。そして、やはり名を変えた長浜城主羽柴秀吉の城下の一砦を預かり200石を与えられて、砦の城主となりました。天正元年のことです。(と私は解釈しています)

 和田城主・中村孫平次一氏 
 織田信長は、とうとう浅井・朝倉を征伐し越前、近江も安定してしまうと、次には大坂の石山本願寺(一向宗総本山)や、その他の四天王寺、 紀州の雑賀(さいか)、根来(ねごろ)衆ら宗教を相手としました。ところが、この宗教集団はなかなか手強く、平定するのに大変骨を折りました。天正5年頃、四天王寺や、雑賀、根来の僧兵達の征伐の拠点として、岸和田城がありました。そこに城番として、中村孫平次一氏は派遣されていたのです。天正12年(信長逝去後のことです)、ついに城主として処遇されました。勿論、紀州勢討伐の功績によるものです。
その前の天正6年頃、織田軍の一方の鉾先である中国攻めが、秀吉により行われていました。先ず、播州方面はすでに下し、一つ残した三木城の攻略にかかっていました。三木城もなかなかの堅城で、この攻略に2年を要しました。天正8 年、次なる鉾先は鳥取城攻めでありました。

 村孫平次一氏も、この岸和田を守りながら、中国攻めにも参戦し、信長軍団は、一方が石山本願寺も降して居ましたので、鳥取城攻めに主力 を注いでいました。(鳥取城攻略図を見ると、中村孫平次は江崎生津橋に陣を張っています)秀吉は、鳥取城を落とすと、次は備中高松城を攻めました。この時は水 攻めで、備中高松城はあわや水没という時、信長の「本能寺の変」が起きたのです。信長の急死をひたかくしにして、毛利軍と和睦した秀吉は、取って返し山崎で明智光秀と対陣します。これも討ち取り、とうとう秀吉の天下統 一がなされました。天正10年のことでありました。天正11年になると、旧織田の家臣連中のうち、秀吉に同調しなかった連中が、あちこちで旗挙げしました。中でも柴田勝家との戦いは、「賎ヶ 岳の合戦」で有名であります。

 将連中の再編成
 天正11年は秀吉が名実共に天下の頂点に座った年で、中村孫平次一氏も岸和田城主として確立したのでした。何分、根来、雑賀の連中はつか み所がなく、なかなか壊滅させられなかったのです。天正12年、13年は、この雑賀、根来と組んだ徳川家康と秀吉が「小牧・長久手」で対峙した戦いで、結着のつかぬままでありましたが、家康の 何となく臣下の礼をつくす形でおさまりました。

 村孫平次一氏、近江水口城主となる。
 天正13年、秀吉による天下統一がなされた時、中村孫平次一氏は、近江水口城主に任じられました。水口という所は、東海道を西行する時、 尾張から鈴鹿峠を経て、近江に入り山を下りた所にあります。つまり東海道の要衝です。そして、近江八幡に居した秀次の見張りとして封じられたとも言われています。

 田原北条攻め  
 秀吉による天下統一は、関西方面では、果たされましたが、関東の北条と東北の諸将とは未だ対立関係にありました。 天正18年、全武将連中に北条攻めを指示しました。中村孫平次一氏 も、これに参戦すると共に、小田原城の支城である箱根の山中城を一將で征伐しました。その後、北条攻め(小田原城攻め)は、勿論秀吉軍の勝利となり、東北の諸将も全て秀吉に従ったので、ここに秀吉は、本当に 全日本の天下を統一したのでした。そして、全国の諸将の封地を総替えしたのでしたす。天正18年(1590)のことです。

 村孫平次一氏、駿河国駿府城主となる。
 全国配置で特に気を使ったのは、徳川家康を関東に封じたことでした。関東は広く、禄高も一応高かったのですが、秀吉が目の上のたんこぶとして心配していたのが、徳川家康でありました。従って、関東か ら上京する街道筋には子詞いの信頼のおける武将を配したのです。
駿河(現静岡)に中村孫平次一氏を、遠江に山内一豊を、三河に田中吉政を、又甲府に加藤光泰を配したのです。

 鮮出兵
 秀吉の考えがどの辺にあったのか天正19年(1591)秋、朝鮮出兵を行う事を決めました。諸将の配置を決めました。でも、徳川家康を朝鮮に向ける事は出来ませんでした。従って、のど首の守りの諸将、中村一氏 等も朝鮮出兵はなかったのです。

 吉の死
 慶長3年(1598)8月ついに秀吉は逝去しました。朝鮮出兵はそれまで丸7年間、行われていましたが大した成果もなく、国際的な反感を買っ ただけの無駄なものでした。

 ヶ原合戦
 2年後、慶長5年(1600)9月、関ヶ原合戦が起こったのです。(合戦の次第は、前述のとおり。また、皆様よく御存知と思います。)合戦が終わり、12月になると家康による諸大名の封地替えが行われました。外様は禄高を増やして、辺地へ、重要地区には親籍や譜代の大名を配したのです。これは、以前秀吉が前例をつくったものでした。

 村一忠 伯耆米子城主となる。
 父の一氏は駿河14万5千石でしたが、後を継いだ嫡子一忠は、伯耆18万石です。そして、家康の配慮は外様もなるべく親籍とすることでした。 中村一忠(幼名一学・伯耆守・後松平忠一となる)にも、松平康元の娘を、自分(家康)の養女として、娶わせたのです。

 老・横田内膳村詮を伐る(米子騒動)
 一忠が米子城主になったのは10才の時でしたが、14才になって所謂結婚式(奥方額直しの儀とされている)が行われた時、今まで実権をにぎられていた横田村詮を伐ったのです。そして、横田一家と対峙し、戦ったのです。勿論、勝ったのですが幕府からはにらまれたと思われま す。米子騒動として、中村記という古書に書かれています。慶長8年11月のことでした。

 村一忠の逝去
 慶長14年の夏頃、京から帰って身体の調子が不調となったのですが、 好きな川狩りに出れば治るだろうと、日野川に出掛けました。帰ってから急に様子がおかしくなり、自室に引籍ったのですが、誰に会う事なく急死したのです。

 村一忠の子供達
 同時、正室「おさめ」の方にも女児がありました。京都に父の時代からあった中村屋敷に側室が居り、この人達にも子がありました。国元の米子にも、お国御前と呼ばれる側室が居ました。この人は、妊娠して いました。一忠が逝去してから、この国元の側室は、田舎に引きさがり、隠樓して男児を産みました。中村一忠には、こうして子が居たのですが、表向きは幕府の大方針である「外様は消せ」の為、「子の ない中村家は断絶」と決まったのです。

 供達のその後
 文献がとぼしく不明な点が多いのですが、九州方面の大名の家臣となったり、京都で出家したり、また中村一氏の正室は池田信輝の子で あった事から池田家と親籍となり、鳥取池田家に迎えられた。などの記録もあります。

最後までお読み頂き有り難うございました。中村忠文へEメール下さい。←(ここをクリック)
いろいろお話しをしたいと思います。

ページの先頭へ
r s


インディックス中村家の会中村忠文 著書権現まつり

中村忠文 E-mail:tyubun@hal.ne.jp

Copyright© 2000 Tadafumi Nakamura.Allright Reserved.